影向寺(ようごうじ)の歴史と文化財 を尋ねて(その1)

 本紙前15号では、昨春、影向寺境内地下の遺跡が橘樹郡衙跡とともに、向後3カ年に国史跡指定の実現を目指してスタートされたと紹介。これを機に、影向寺の重要文化財「薬師三尊」の国宝復活運動にも拍車がかかる。そこで本紙では、影向寺の歴史と収蔵文化財などについて数回にわたって探索していく。

百日紅、真夏の影向寺薬師堂

百日紅、真夏の影向寺薬師堂

1.「影向」の読みと意味
 東京都大田区から川崎市宮前区に転居して、ちょうど20年になる。当時、私はバスで「山下」から「中原」に出てJRに乗り換え、川崎駅を経由して品川駅近くの職場に通っていた。バス停「中原」と「山下」の間にバス停「影向寺」がある。最初、「えいこうじ」と誤った読みで、由緒ありげな『影向』を辞書で調べたが、無い。仏教知識のある人なら誰しも知るところ。その読みを「ようごう」と知ったのはそれから4、5年経った頃だろうか。『新潮国語辞典』で引くと、仏教用語で、《神仏の霊が具体的な姿をとって現れること》とあった。『大辞泉』には《神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨》とある。そうした或る休みの日、「影向」の言葉に惹かれ、影向寺に出掛けた。その頃、境内の建物のあちこちが工事中で、寺域に入るのが憚られ、境内の右方・入口付近に、影向石と呼称された大石が置かれていて、由緒あり気であったが、境内が工事中ということもあり、それ以上探索することなく、影向寺を辞した。

2.織田信長と「影向の間」
 その後、「影向」という言葉に再会したのは、井沢元彦著『逆説の日本史10戦国覇王編・天下布武と信長の謎』を読み進めている時。織田信長が建立した安土城の天守閣(天主閣とも)に、「影向の間」があったと次のように記される。
 安土城の最上階第七層の天守閣は、三間(5.4メートル)四方の全てが金張りで、天井には「天人影向」、四囲には三皇、五帝、孔門十哲、商山の四皓、七賢(竹林の七賢)が描かれる。「三皇」とは中国の伝説的聖人で、伏羲、女媧、神農を、また「五帝」とは中国の伝説上の聖人で、黄帝、帝顓頊、帝嚳、堯、舜を指す。「影向の間」であればこそ、錚々たる聖人中の聖人が取り囲むという演出である。《つまり、その取り巻きに囲まれ、「天主」の中央に座る者、それこそ「影向」した「神仏」ということになる。》
 その〈「影向」した「神仏」〉に、織田信長は自身を充てた。即ち、信長が、朝廷が足利義昭の後継者として征夷大将軍に任じようとしたが固辞し、その他高位高官の推挙にも言を左右にして受けなかった訳は、自身を天皇を超える存在、《「神」になったのである。》と井沢氏は、《自ら年号を定めた「天正」七(1579)年の誕生日五月十一日(陰暦)に、信長は安土城の天主の「影向の間」で、神としての就位式を行い、この地に光臨したのである。》と記す。

3.影向寺を訪ねて
 織田信長がこだわった「影向」について知るにつれ、影向寺が「影向」を冠するのには、神仏顕現に由来する何かがあるのではないかと強い興味を覚えた。
 こうしたことから、平成21年7月8日に宮前区観光協会から広報紙(現『宮前の風』)の取材記者の委嘱を受けたとき、まず頭に浮かんだのが影向寺を取材し、広報紙で紹介しようということだった。早速、3日後の11日午後、影向寺を訪ねた。バス停「影向寺」からなだらかな坂を上り詰め道なりに左折して影向寺に辿り着く。
 「稲毛薬師 威徳山影向寺」の標識を左に見て石畳の参道を進み、五段の石段を上がり、山門を抜けると、右に太子堂を見て、正面に薬師堂(本堂)がある。本堂正面の扉は固く閉じられ、中をうかがうことができない。お参りをして本堂の裏手に回ると、蔵のように頑丈な、防火万全とおぼしき建物があり、収蔵庫とある。本寺本尊の薬師三尊像(薬師如来・日光・月光両脇侍)、二天立像、十二神将像を収蔵との旨表示板がある。左方を振り向くと、墓域に通じる出入口の手前左に、お寺の方かそれとも墓参に来られた方か、墓参道具類を洗う中年の女性がいる。収蔵庫を指さして「中を拝見できますか?」と尋ねると、「右に曲がると寺務所がありますので、入口のブザーを押してください。住職がいらっしゃいますよ」と教えてくれた。

ご縁日には善男善女が寄り集う

ご縁日には善男善女が寄り集う

4.影向寺縁起を追って
 寺務所玄関右のブザーを押し、来意を告げると、「お待ちください」と快い返事。間もなく、中から「どうぞ、お入りください」と声がかかる。記者証を提示し、「『影向』とは、神仏が仮の姿をとって現れること、を意味しますが、『影向』を冠する当寺創建の由来についてお聞きしたいのですが?」と来意を告げると、「当寺は、元々は影向寺という寺名ではありませんでした。『栄興』とか『養光』という寺名でした」とのお話を伺った。住職からいただいた影向寺縁起記載のリーフレットには、《天平11(739)年、光明皇后が眼病を患った折り、聖武天皇の夢枕に一人の僧が立ち、「武蔵国橘樹郡橘樹郷に霊地あり、その地に霊石あり、その石の上にはいつも聖水が湛えられている。此処に伽藍を建て、薬師如来を安置し奉るならば、皇后は平癒されるでありましょう」と告げた。目覚めるや天皇は即、夢のお告げを実行に移し、高僧行基を当地に派遣。行基が、天皇がみた夢のお告げのとおり当地に発見した霊石に、祈願したところ霊験あらたか、光明皇后の眼病が快癒。天皇の勅命により当地に伽藍が聳えたのは、翌天平12年のこと》云々と記される。影向寺の前名「養光寺」には、光明皇后の眼病が平癒した意が籠められていると住職から伺う。
 聖武天皇あるいは行基が「養光寺」と命名する前の寺名が栄興寺。近年の発掘調査では、影向寺の創建年代は白鳳時代末期(7世紀末)まで遡ることが明らかになっている。天皇が伽藍建立を発したのは740年だが、それ以前に当地の豪族が創建した寺が存在していたということだが、今回はここまで。以下、次号では、その後の影向寺の歴史と、「影向」の命名の由来、薬師三尊像などの文化財について紹介します。

宮前の風16号・2014.1 文・坪井喬)

【注意】掲載記事は、取材時のもので内容がかわっている場合があります。

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