橘樹郡衙跡及び影向寺遺跡の国史跡指定の取組みスタート

 橘樹郡衙(たちばなぐんが)跡及び橘樹郡の公的な寺(郡寺)であったと考えられる影向寺(ようごうじ)について、国史跡指定はかねてより懸案であったが、川崎市では、昨年度に橘樹郡衙正倉域の一部を保存活用用地として取得、また本年5月30日には全国の古代官衙研究各分野の第一人者6名による橘樹郡衙調査指導委員会を立ち上げ、今後3カ年をかけて実現するべくスタートした。そこで以下に、国史跡指定を目指す橘樹郡衙跡と影向寺遺跡について、紹介します。

1.橘樹郡衙発見の経緯
 遡ること1969(昭和44)年、高津区千年の伊勢山台に、土器や石器等が多く散布していることから、文化財保護法に基づき周知の埋蔵文化財包蔵地として遺跡地図に掲載され、開発事業等に伴う届出・保護措置の義務付けが行われた。それから27年後の1996(平成8)年、宅地造成に伴う発掘調査が行われた。その調査の結果、7棟の総柱式掘立柱建物跡が発見され、橘樹郡衙の推定地としてその存在が広く知られるキッカケとなった。従来、総柱式建物跡は、古代の役所跡などでよく発掘されることから、それら建物群跡が古代橘樹郡衙の倉庫(正倉)ではないかと注目された。それまでその場所も分からず謎に包まれていた古代橘樹郡衙がおよそ1300年ぶりに姿を現した。
 古代橘樹郡は現在の川崎市とほぼ同じ範囲の行政区域で、橘樹郡衙は古代における川崎市役所に相当する。その橘樹郡衙は、隣接する影向寺とともに古代川崎の政治・経済の中心地として、人々や物資、当時の進んだ文化が行き来した場所と想定される。
 645年の大化の改新から始められ701年の大宝律令によって完成した古代律令国家体制下、地方行政組織として全国に66の国、国の下に約600か所の郡が設置されたが、橘樹郡はその一つで、橘樹郡衙はその役所である。  

2.武蔵国の古代史解明の鍵を握る  橘樹郡衙
 古代の日本では、律令制度に基づいて五畿七道、その下に国、郡、里という仕組みが作られ地方の支配が行われた。そのなかで川崎市は、現在の行政区域とは異なり、東京都や埼玉県と同じ武蔵国に属し、信濃国(現在の長野県)や上野国(現在の群馬県)と同じ東山道に含まれていた(因みに、横浜市の大部分も武蔵国だが、その他神奈川県の大部分は相模国)。当時、都と武蔵国の国府(現在の県庁に相当、東京都府中に在)との行き来は信濃国や上野国を経由するルートが採られた。その後、東京湾沿いの道が整備されると、不便な東山道に代えて、東海道を利用した交通が盛んになり、771(宝亀2)年、武蔵国は東山道から東海道に所属替え。
 さて、武蔵国には21郡が設けられたが、橘樹郡衙のように郡の役所である郡衙の遺跡が発見されているのは、ほかに4郡(都筑郡、豊島郡、榛沢郡、幡羅郡)のみ。それだけに、橘樹郡衙のように郡衙の所在地が確定できた遺跡は、川崎市だけでなく武蔵国の古代史を解明する上で極めて貴重かつ重要。国史跡指定への取組みに拍車がかかる所以。

3.郡衙の施設と仕組み
 古代の役所である郡衙とは、どういう仕組みだったのか?『上野国交替実録帳』[1030(長元3)年に作成の国司交替時の引継書]により郡衙にあった施設や仕組みを推定できる。即ち、郡衙には、郡内の政務や儀式などを行う「郡庁」、管轄の住民から税金として集めた稲などを保管する「正倉(しょうそう)」、国内を視察する国司や、郡内で仕事をする郡司の宿泊施設としての「舘(たち)」、郡衙の厨房施設である「厨家(くりや)」、それぞれの様々な付属施設があった。郡衙には80人から100人の役人が勤務していたと考えられており、人口も疎らな地方にあって、郡衙は郡内の人々が行き来し物資が集まる郡の中心地として栄えていたと想定される。

4.地方豪族から朝廷の傘下に
 橘樹郡衙が所在する高津区千年周辺の子母口、千年、新作、梶ヶ谷、宮前区野川、馬絹、といった地域では、5世紀後半から7世紀にかけて多くの古墳がつくられているが、これら古墳は、当時の川崎市域を支配した有力者のお墓。県指定史跡の西福寺古墳や馬絹古墳など、現在知られているだけでも10数基ほどあり、地域の有力豪族が約200年にわたって大きな力を持っていた証し。
 橘樹郡の地名の由来は、6世紀前半、当地の有力豪族・笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は、国造の地位を一族の者と争っていたが、所領を橘花屯倉として朝廷に献上したことによる。なお、これにより笠原は、その見返りとして朝廷から武蔵国造に任命され、国造の地位を争っていた一族の者を退けた。このように有力豪族は、朝廷との繋がりをバックボーンとして地域における支配力を確保する。仏教の普及に努めていた朝廷の意向を受けて当地の豪族は、野川の地に影向寺を建設、またそのすぐそばに橘樹郡の役所である橘樹郡衙をつくるなど、朝廷の新しい支配体制の中で、己れの支配権を確立していった。

5.影向寺と橘樹郡衙との関係
 影向寺の創建については、1977(昭和52)年から1980(昭和55)年にかけて川崎市教育委員会が実施した「影向寺文化財総合調査」における寺院址の調査以来、たびたび実施された影向寺域での発掘調査の成果から、創建されたのは7世紀末頃とされる。
 創建当時の影向寺の貴重な資料として「无射志国荏原評(むざしのくにえばらこおり)銘文字瓦」がある。この文字瓦は、影向寺境内の発掘調査で掘立柱建物の柱穴から発見されたもので、影向寺が創建された頃の瓦。重要なのは「无射志国荏原評」と「国」と「評」が刻まれていること。即ち701(大宝元)年に大宝律令が施行される以前の地方行政制度である国評制に基づいた表記方法であること。これにより影向寺の創建年代が推測できる。又、武蔵国橘樹郡(当時は橘樹評)につくられた影向寺に、隣の荏原郡(当時は荏原評)の瓦が使われていたことから、影向寺が郡の公的な寺院即ち郡寺であった可能性が高い。
 ここに郡衙と郡寺というセットで、橘樹郡衙と影向寺との関係を捉える必要がある。

宮前の風15号・2013.10 文・坪井喬)

【注意】掲載記事は、取材時のもので内容がかわっている場合があります。


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