誕30周年に思う、宮前区の今と昔(その1)

1.宮前区の誕生の経緯 
 宮前区が高津区からの分区により誕生したのは昭和57年(1982)7月1日、今年で30歳になる。分区前の高津区の人口は294115人、誕生直後の人口は148056人と、人口は見事に二分された。現在、宮前区の人口は221294人(今年4月)、分区時から約50%の人口増、今日なお人口は増加の一途を辿る。現在も区内の至る所で、戸建、マンション、アパートの建設を目の当たりにすることができる。全国的には少子化が謳われて久しい近年、区内の人口増の実態は驚異的。魅力的な立地が招来するものであろう。
 分区の際、区名の命名を一般公募し、1位の「宮前」に決定。2位は「橘」、3位「宮崎」、4位「有馬」、以下順位略。「宮前」の由緒は、明治22年に市制・町村制が施行された際、梶ヶ谷、野川、馬絹、有馬、土橋の各村と溝口村の飛地が合併して宮前(みやさき)村と命名されたのが端緒。宮前村の命名の由来、馬絹神明神社南側から梶ヶ谷神明社南側に及ぶ馬絹字宮ノ前付近に村役場が設置されていたことによる。ただ、読みは「みやさき」から今日一般的な読みの「みやまえ」とされた。

2.宮前区域発展の背
 昭和40年代にはいり東急による田園都市化が大々的に展開され、飛躍的に宅地化が推進される。昭和41年、田園都市線が溝の口から長津田まで延長され、その後、第三京浜国道や東名高速道路などが開通、区域内は大きく変貌していく。
 「田園都市線」という名称は、東急が田園都市線とともにエベネザー・ハワードの提唱した田園都市構想を用いて建設を推進した「田園都市」に由来。溝の口駅以西はこの「多摩田園都市」の中核をなす交通機関として建設された。多摩田園都市地域のニュータウンとしての発展とともに、同地域の最も重要な交通機関として機能していく。
 昭和43年に長津田~つくし野間開業、同47年、つくし野~すずかけ台間開業、51年にすずかけ台~つきみ野間開業、そして59年、つきみ野~中央林間間が開業して全線開通。田園都市線の延長そして全線開通と並行して、各駅を起点として路線バスも整備されていき、これに伴い、宅地化は鉄道沿線からバス路線の沿線へと展開、網の目のように巡らされていき、そういった区域の現況が、人口増すなわち宮前区の飛躍的発展を招来している。

3.子供達は明るい未来の象徴
 宮前区は、昭和47年の区制施行の段階では高津区に含まれていたが、昭和50年代になると、前記のとおり東京のベッドタウンとして宅地化が進み、著しい人口増加を招来したことから昭和57年、高津区から分区して宮前区となったが、この間、区画整理や住居表示によって19もの町が次々と誕生した。農家は都市近郊型農業へと移行し、丘陵の間を縫っていた谷戸田も住宅地となり、丘陵の頂きにまで集合住宅等が建つようになった。そういう最中の19年前、私が東京から転入してきた頃、周囲には畑が至る所に散在していたが、年々歳々、集合住宅や戸建住宅が建て込むのを目の当たりにし、区域の人口増を身近にひしひしと感じてきた。が、区域を散歩すれば、なお畑や植木の生産地は健在で、季節の移り変わりに、目を楽しませてくれる。
 また、区域には至る所に公園があり、学校の放課後の時間帯には、遊ぶ子供達の歓声で満ち溢れ、土日などの公園は、子供連れで賑わう。大勢の子供の存在は、区域の明るい将来を、区民の誰の胸のうちにも想起させることだろう。
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 生誕30年、壮年期に入った宮前区は、実は歴史的にも興味深い区域です。次号では古代から近代までの当区域を紹介していきたいと思います。

宮前の風11号・2012.7 文・坪井喬)

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