影向寺の影向石(野川)

 影向石(ようごうせき)は、影向寺(ようごうじ)の名前の由来となった石で、境内の一角にあります。江戸時代の初め万治年間に、当時の薬師堂が火を被ると、本尊薬師如来は自ら堂を出て、影向石の上に被災を逃れたと伝えられています。石に神仏が馮依しているとして爾来影向石と称されようになりました。当時の寺名・養光寺を、影向寺と改めた所以です。 
 影向石の由来を次に詳しく紹介いたします。

影向寺(影向石)

【影向石(右)と影向石碑】

 影向寺縁起には、《天平11年(739)、光明皇后が眼病を患ったおり、聖武天皇の御夢の中に一人の僧が現れ、「武蔵の国橘樹郡橘郷に霊地があって、その地に不思議な霊石がある。その石の上にはいつも聖水が湛えられている。此処に伽藍を建て、薬師如来を安置して奉るならば、皇后は平癒されるでありましょう」と告げた。天皇は直ちに夢のお告げを実行に移し、高僧行基を当地に派遣した。行基は、天皇がみた夢のお告げのとおり当地に発見した霊石に、祈願したところ、霊験あらたかに光明皇后の眼病が快癒した。天皇の勅令により当地に伽藍が聳えたのは、翌天平12年のこと≫云々と記される。
 影向寺の前名は養光寺だが、この寺名には、「光明皇后の眼病を癒した」との意がこめられていると考えられる、と話された加藤住職に、境内の一隅にある影向石までご案内をいただいた。
 影向石は全体が丸みを帯び、最大径190cm程(高さ50cm程)の上辺は平坦で中央に窪みがあり、水が湛えられ、その霊水で洗うと眼病が治癒すると伝えられている。影向石の傍らに影向石碑がある。延享3年(1750)に和泉国の森本宜直が建立したもので、影向石の窪みに湛えられた清泉を飲んだところ医薬や医術を尽くすも埒が明かず多年患っていた眼病が治癒したことから、その神霊に感謝する旨、刻まれている。森本は、幕府の奥医師を勤めた東都法眼桂川甫筑の門人で、オランダ医学にも通じた医術師であるから、影向石への信仰の程が伺われる。
 以上が影向石にまつわる奇蹟の伝説だが、加藤住職から「川崎市民ミュージアムに影向石のレプリカが展示され、影向石が三重塔の塔心礎石としてどのように活用されていたかが分かるように復元されています」と伺った。そこで同ミュージアムを訪ねると、2階常設展示室には川崎市域の古代から近代までの歴史が、民俗、原始、古代、中世、近世等に区分され、出土品やレプリカ等によって、分かりやすく展観されていた。影向石のレプリカは古代ブロックに展示され、その影向石の上には直径50cm程の丸柱(プラスチック製)が乗っている。傍らの掲示板には、「影向寺三重塔とその心柱」と題して≪金堂にやや遅れて三重塔(推定)が建設された。現在は塔の内部を貫く心柱を支えた塔心礎石(影向石と称する)を残すのみであるが、その柱座から推定すると、巨大な柱がのっていたことになる。現存する奈良当麻寺東塔の心柱は影向寺の影向石のような巨大な塔心礎石の上にのっている≫云々と説明されていた。
 影向石のほか、影向寺には目を瞠る文化財が数々ある。
 影向石が焼失を救ったと伝説の薬師如来は12世紀前半頃の制作で、影向寺の本尊である。両脇侍像は12世紀後半頃の作。薬師三尊像は重要文化財の指定を受け、文化財保護法により、防火・盗難対策について規定されていることから、通常は薬師堂の後ろにある収蔵庫に保管されていて見ることが出来ない。が、8月の施餓鬼会の日などには収蔵庫がご開帳され、拝顔することが出来る。収蔵庫にはほかに、薬師三尊像の両脇に二天立像、背後には薬師如来の眷属・十二神将立像が控えており、いずれも川崎市重要歴史記念物である。また、薬師堂右の太子堂には聖徳太子孝養像(川崎市重要歴史記念物)が安置されている。
 秋が深まると、境内の銀杏の大木の黄葉が美しい。その銀杏の乳柱を削って飲むと乳の出がよくなるという伝説があり、「影向寺の乳イチョウ」として親しまれている。
 ここでは影向石を中心に述べましたが、薬師三尊像や聖徳太子孝養像そのほか諸々について詳しくは、宮前区観光協会のホームページ【http://www.miyamae-kankou.net】をご覧ください。
宮前の風創刊号・2009.11 文・坪井喬)

【注意】掲載記事は、取材時のもので内容がかわっている場合があります。

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