馬絹神社と神輿(馬絹)

2011.1馬絹神社(宮前区) 17年前、宮前区に転居、その年の大晦日、紅白歌合戦が終わり、「ゆく年くる年」が始まり、全国各地の除夜の鐘が流れるTV画面のスイッチを切り、初詣に出掛けたのが馬絹神社だった。転居後三か月で周囲の地理には不案内だったが、何故か「馬絹」の神社名に惹かれたのである。神社に近づくにつれ三々五々集まってくる参詣者の姿に、寒風の中、胸に温かいものが広がった。
 馬絹神社入口から拝殿広場までの参道に参詣者の長蛇の列ができていた。一列に2~5人、参道の階段は30数段、途中に5~6列並べる踊り場が3ケ所あり、拝殿前から参道の入口まで200数十名が粛々と新年を待つ。0時を過ぎ新年を迎えると参詣者は一段々々と緩慢に階段を上がる。連れ添う人同士の小声の会話が聞こえるものの実に整然、粛々と参拝の順番を待つ善男善女。私の後に続々と参詣者が並び、振り返ると神社入口まで列なっている。拝殿前で、善き新年を祈り参拝を終えた参詣者は、神社が用意した甘酒の持て成しを受け、寒さで冷え切った身体の五臓六腑に沁みわたり帰途に就く参詣者の身も心も温めた。
 昨年9月半ば、まだ猛暑和らがぬ午後、馬絹神社の来歴の取材に訪れるにあたり私は、かねて抱く二つの疑問を解決したいと思った。一つは、馬絹神社がかつて女体権現社とも女体神社とも称したこと。もう一つは、現在の「馬絹」名の由来が那辺にあるのか?
 拝殿の右に、「御神木千年の松」として松の木の一部分と、加工した板(厚さ一寸×高さ六尺)が祀られていた。その説明文には、「昭和16年まで参道入口に茂っていたが戦争で切り取られたこと」又「その松には古代、源頼朝が馬の袖絹を打ち掛けたとの伝説があり、それに因み“馬絹”の名が生まれた」云々とあった。たまたま社務所から現れた方に「松の木は戦災で焼かれ切り倒されたのですか?」と尋ねると、「枯れたのです」との答え。「私は子供だったが、子供六、七人が手を繋いで幹の周りを計った程の大木だった」と往時を懐かしむように話してくれたのは社務所の管理人・石渡利長さん。
 例大祭の前日10月14日に再び馬絹神社を訪ねた。参道の両脇は、露店の組み立ての真っ最中。階段を上がる。拝殿前の広場には神輿が設えられ、翌日の準備は万端。神輿は現代の名工・中台祐信作、龍と十二支の精妙な彫刻が素晴らしい。社務所で奉賛会会長・田邉英夫さんに、馬絹神社がかつて女体神社と称していたことについて尋ねると、「御祭神が伊邪那美命で、女性ですから」とのこと。田邉会長は続けて「女体神社から神明神社に改称したのは明治43年。近隣の八幡神社、三島神社、熊野神社、白山神社の4社を合祀した時。そして昭和54年に神楽殿また昭和62年10月に神殿を新築、参道の階段を整備し再建した際に馬絹神社に改称されました」と語る。「馬絹」を神社名としたのは、「頼朝公ゆかりの伝説に因む地名から」との由。会長から翌15日の例大祭に10地区11神酒所を巡る神輿の宮出し・宮入りの時間を伺って神社を後にした。
2011.1馬絹神社(宮前区) 翌日例大祭の朝9時の宮出しから神輿の供をして歩いた。神輿を担ぐのは約50名。神輿の周りには「馬絹」等の様々な印しの半纏着用の約300名が供に進む。担ぎ手の交代要員だ。前日、田邊会長は「重量のある神輿を一日かけて地区内を回るので交代要員が必要。青年会60名では要員不足なので、神奈川県内のほか近県、遠くは岩手や秋田県から交流会の方々が神輿を担ぎにきてくれる」と話していた。
 神酒所で、「オイサ!オイサッ!」と掛け声とともに担ぎ手が神輿をもむのを見ていると、「初めてですか?」と馬絹の印半纏着用の藤本明さんに声をかけられ、「神社に行って氏神様に参拝し祈願するのが本来だが、様々な事情から出掛けられない人々がいる。そういう方々のため、氏神御神体が輿に乗り移って神社から出張して地区内を巡る、その時の乗り物が神輿なんですね」と説明していただいた。そう言われてみて、高齢で足元が覚束ない方が門の前に立ち、笑顔で神輿を迎え、見送っている姿を思い返した。又、ある神酒所では、高齢の方が家族に車椅子を押してもらって家の中から現れ、神輿の前で家族と一緒に笑顔でカメラに収まっているのを見たりした。
 泉福寺の神酒所では、社会科の校外授業か、100名程の小学生が神輿見学のため整然と待機していた。泉福寺は住職をはじめ寺をあげて神輿の担ぎ手を労って懇切に応接。泉福寺と馬絹神社との関わりは深く、同寺に代々伝わる古文書には、『元禄十丁巳年十二月武蔵国橘郡稲毛領馬絹検地水張除地』の部に『女体権現社地五反弐畝歩』と記されており、「その記述により馬絹神社の創建時期が江戸時代元禄年間以前とされています」と田邉会長が前日話されていた。
 午前中は、矢中、矢尻、三ツ又広場、寺台、平台と神酒所を巡り、六か所目の小台公園で昼の休憩にはいる。小台公園では、保育士に引率された200数十名の幼稚園児が神輿を迎え、担ぎ手による神輿の「せりもち」に大歓声を挙げ、「よこた」には真剣な眼差しで見守る。こうして神輿に関する文化が幼い子供に伝えられていくのだろう。
 午後6時頃、神輿が宮入りする頃に馬絹神社を訪ねた。参道の両脇は隙間なく露店が建ち並び、親子連れなどで賑わう。神楽殿では「浦安の舞」や太鼓演奏が奉納。午後6時半頃、拝殿前の広場に神輿が宮入り、広場を埋める人々が大歓声で迎える。一際激しく担ぎ手が「せりもち」を繰り返したあと、「よこた」に移り、それから再び「せりもち」が一頻りあり宮入りが完了。拝殿前に鎮座した神輿は大役を果たし燦然と輝いていた。 

宮前の風5号・2011.1 文・坪井喬)

【注意】掲載記事は、取材時のもので内容がかわっている場合があります。   


カテゴリー: 歴史・文化 タグ: , , , パーマリンク