野川神明社南遺跡(野川)

野川神明社南遺跡第2次調査現場見学会に参加して古代を偲ぶ
 2010年3月13日、野川神明社南遺跡第二次調査現場見学会が、主催川崎市教育委員会と㈱盤古堂、協力宮前区観光協会で開催された。今回の第2次調査は、老人ホーム建設に先立つ事前調査で、(先の第1次調査の西隣に位置))、開発者と㈱盤古堂が業務委託契約を結び、2009年12月21日から2010年3月31日にかけて現地調査が行われた。調査面積は1411.9㎡。

2011-7野川神明社南遺跡

①「2009年秋・咲き乱れるコスモス」

第2次調査現場に来て、瞠目した。その現場は、前年の夏から秋にかけ『宮前の風』創刊号の記事取材のため何度か影向寺を訪ねた、その行き帰りに通りかかった場所。野川神明社に隣接する農地で、秋にはコスモスの花が咲き乱れていた(写真①)が、その面影は皆目ない。1mから2.5m程も掘り下げられており、かつて歴史の教科書で登呂遺跡の発掘現場の写真を見たガ、それと同じ光景が目の当たりに現出していた。
2011-7野川神明社南遺跡

②「2010年3月・南遺跡発掘現場」

 変哲もない農地を掘り起こし、どうして古代の遺構を発掘できるのか、発掘調査を担当した盤古堂の方に伺うと、下記の通り過去の近隣(影向寺及び野川神明社)の発掘状況から、遺構が埋設されていることは確かなこと、あとは土の色の微妙な変化から、例えば黒い土があれば其処に竈(かまど)があったことなどが分かり、「写真②」で見る通り発掘できるのだと言う。この農地の周辺も、発掘すれば至る所から古代の遺構が発掘されるのは間違いないのだと言う。
 
 此処一帯は多摩丘陵に連なり、丘陵の広葉樹林に降った雨が地に滲み込み、滲みだした泉(谷戸)が気の遠くなるような永い歳月をかけて丘陵を穿ち、幾筋もの谷が丘陵から多摩川へとかたち造られた。その浅い谷間は日当たりが良く、住まいにまた地味豊かで畑作にも適し、多くの集落が形成されていった模様だ。今回発掘調査された場所から直ぐ目の前の浅い谷間には、桃や椿などの花々が咲き乱れるなかに畑作が営まれ、さながら桃源郷の趣き、一瞬古代の風景を髣髴とさせた。
 先の第1次調査は今回調査地点の東側隣接地で行われ、弥生時代後期の竪穴住居址19軒、古墳時代~奈良・平安時代にかけての竪穴住居址13軒、掘立柱建物址1棟や縄文時代早期炉穴、土坑など多くの遺構・遺物が検出された。
 
2011-7野川神明社南遺跡

③「2011年4月・建設された老人ホーム」

 今回の第2次調査では、弥生時代後期の竪穴住居址や古墳時代から奈良・平安時代にかけての竪穴住居址28軒以上、及び掘立柱建物址11棟、中近世の井戸址1基を検出、それらに伴い大量の土器などの遺物が出土した。
 第1次調査及び第2次調査から明らかになったのは、弥生時代後期から古墳時代、奈良・平安時代にかけて此処には神奈川県下でも有数の大規模な集落が展開していたとのことである。近隣には、古代の遺構として白鳳期寺院影向寺や橘樹郡衙(役所)跡と推定される千年伊勢山台遺跡があり、往時、当時の集落は橘樹郡における一大中心地であったようだ。
 見学会場には、出土品のほんの一部が展示されていたが、大量に発掘された土器等は今回の調査報告書が刊行される予定の1年後以降に、川崎市市民ミュージアムで展示されるという説明があった。
 それから1年後の2011年4月、調査結果がいつから川崎市市民ミュージアムで展示されるのか川崎市教育委員会文化財課の服部隆博さんに照会したところ、「膨大な量の出土品整理の完了と報告書の刊行までには、なお2、3年を要します」との回答であった。
 昨年の見学会から1年余ぶりに、発掘現場を訪ねた。そこには老人ホームが建っていた(写真③)。弥生、古墳、奈良、平安時代の往時の人々の生活ぶりを髣髴と思い浮かべ、今そこに高齢化社会を迎え老人ホームが営まれるのを目の当たりにする、悠久の時の流れをしみじみと感じながら、老人ホームをあとにしたのだった。
宮前の風7号・2011.7 文・坪井喬)

【注意】掲載記事は、取材時のもので内容がかわっている場合があります。