川崎考古学研究所を訪ねて(有馬)その2

考古学研究所(有馬)展示風景1 前回、『川崎考古学研究所(有馬)その1』では、川崎考古学研究所を取材して、宮前区とその周辺における古代人の遺跡の発掘・調査・研究と、戦後から今日に至る市域の開発・田園都市化との深い関わりについて述べたが、今号においては、遺跡の発掘・調査から知る、宮前区とその周辺の古代人の暮らしなどについて紹介します。

 私設川崎考古学研究所の持田春吉所長が最初に発掘・調査を手がけたのは鷺沼遺跡で、60数年前の昭和23年。戦地から復員した持田さんが、食糧増産の国策に沿って未開の地を畑地に開墾していった最中のこと。持田さんが手がけた開墾地の隣接開墾地が後に鷺沼遺跡と呼称された考古学研究所.jpg地で、そこの地表には大きな土器片が無数に散乱していた。また隣接の未墾地の笹藪の中で、石器やほぼ完型に近い土器などを持田さんは発見した。
 鷺沼遺跡からは、縄文時代前期の黒浜式期から諸磯式期にかけての集落跡が発見され、前期4,5軒(推定)、後期6軒を発掘・調査し、「発掘した多くの土器や石器によって鷺沼の縄文人の生活ぶりが分かってきた」と持田さん。そして「鷺沼遺跡のほか、昭和53年に発掘調査した麻生区黒川遺跡も縄文時代の遺水入れ跡だが、その遺跡からは1万2千年前の土器片を発掘した。土器の用途の始まりは、煮炊きの用具だが、鷺沼の縄文人達の時代には、煮炊き用のほか、食糧の入れ物、貯蔵用、水入れ用と器形の分化が進んでいたことが分かる。形も、大小様々の深鉢形、浅鉢形、円筒形などと、用途によって使い分けられていた。これらの土器によって名古屋大学の渡辺誠氏らは、縄文人の食生活は、植物食への依存が非常に高かったと指摘している。狩猟による食糧獲得は不安定だが、木の実などは季節になれば確実に収穫できる。ここ一帯の縄文人は一定の安定した生活を送っていたことが分かる。鷺沼遺跡からは炭化した胡桃が出土していることからも実証できます」と持田さんは語る。

考古学研究所(有馬)展示風景2 ここで私は、影向寺を取材した際、住職に影向石のレプリカがあると教えられた川崎市民ミュージアムを訪ねた際、そのレプリカの近くに骨蔵器があったのを思い出した。骨蔵器の説明文には、川崎市域を中心に横浜市域に連なる丘陵地帯一帯から出土しており、大陸からの仏教伝来とともに火葬の習慣が興るとともに用いられるようになった旨、記されていた。そこで骨臓器の発掘調査を当然手がけたことがあると思い、訊ねたところ果たして持田さんは、骨蔵器の発掘調査によって宮前区をはじめ多摩丘陵一帯の古代人の生活文化の変遷を示すものであることが分かったと語る。
 骨蔵器発見の嚆矢は昭和26年、持田武夫氏が所有の畑地を天地返ししていたときのこと。持田所長は武夫氏から発掘状況を伺い、『有馬神明社造営記念誌』に寄稿した「有馬村のこと」の中で、《赤土(関東ローム層)を掘っていたらシャベルの先にカチンと当たるものがあった。周りを広げて見たら赤土を擂り鉢状に掘り込み、その底の木炭層の上に黒色の甕があり、蓋を取って見たら火葬人骨の粉末が黒土と共に入っていて歯の残片もあった》と記録。以下、持田さんの記録とお話から―
展示品 持田さんは鷺沼遺跡のほか考古学同好の仲間と共に黒川東遺跡、宮前区鷲ケ峰遺跡、東有馬遺跡等を発掘調査したが、それら遺跡は縄文後期までのもの。後期縄文人は、多摩丘陵の谷には湧き水が多く、日当たりや水回りが良く、木の実の収集も容易であったことから、そこに住居を構えた。その後、弥生時代に入り、米作が始まると、流れのあるより広い低湿地、矢上川や有馬下流域、多摩川の沖積地に近い台地で村づくりが行われるようになった。それに伴い、従来の居住地域は、仏教思想に深く帰依した人達の黄泉の国への旅立ちの為の聖域と位置付けられ、居住地としては空域となっていった。
考古学研究所(有馬)展示風景3 持田さんと同好の仲間は、昭和46年に有馬川下流域の野川南耕地のほか、野川西耕地、有馬後谷戸、有馬台坂上、有馬入山の火葬骨蔵器群を発掘調査。それらは8世紀前半代から9世紀末葉までのもの(一部10世紀)で、持田さんはそれら火葬骨蔵器群は、《7世紀末からの律令体制確立後の時代、東国に住する村人達は低湿地を開拓して水田となし、田租(律令制で田地に課する租税)を納め懸命に働いていた≫その証しであると述べる。
 では、弥生時代に米作の普及に伴い人々は平地に移住し、それから長い空域ののち有馬一帯にはどのような人々がどういう経緯で当地に住み着いたのか?持田さんは自身の持田姓に着目、旧有馬村には持田姓を名乗る世帯が多く、旧家持田家の古文書、有馬村の中世墳墓から出土の板碑などを調査し、併せ古老からの伝承、聞き取りにより、鎌倉幕府滅亡に伴う複数の落武者が住み着いたとの結論に至る。以後700年、世代を越えて今日まで人々の営みが続いてきた、と。また中世墳墓の発掘調査を通して、火葬骨蔵器が常滑焼や瀬戸灰釉平碗であったりすることから、当時、当地の人々とそれら生産地の人々との交流、交易があったことを持田さん達は実証した。  
 まだ記すことは尽きないが、紙面(宮前区観光協会情報誌「宮前の風」)の都合で当地の古代人の生活ぶりの一部を記し留めてペンを置く。
 川崎考古学研究所の前庭に、当時の焼成法で復元された縄文土器や壺が、半ば埋め込まれておいてある。それらこそ持田さんと同好の方々が考古学に傾けた情熱の象徴と、深く胸に刻みながら、研究所を後にした。

宮前の風4号・2010.10 文・坪井喬)

【注意】掲載記事は、取材時のもので内容がかわっている場合があります。