白幡八幡大神(白幡)禰宜舞を考察する 源頼義という人物

 9月9日、禰宜舞で知られる白幡八幡大神を訪ねた。実は、7月20日の夏祭に禰宜舞が舞われるとインタ-ネットで調べ、楽しみにしていたのだが、前日の夕刻に電話して開催時間を確かめたところ、「今日、先程終了しました」とのお答えだった。伺うと、20日ではなく7月の第三日曜日、即ち当日19日とのことだった。気落ちする私を察したのか、電話口の向こうで、「9月の第三日曜日の例大祭でも舞われますよ」と教えていただいた。
白幡八幡大神(宮前区)禰宜舞 例大祭を前に、9月9日に訪ねたのは、先ず禰宜舞が何時頃から舞われるのか時刻を確認すること、これは電話でお尋ねすれば事足りるが、それ以上に、これまで一度も白幡八幡大神をお参りしたこともなく、自宅から当地までの道筋と、要する時間が曖昧であることから当日、7月のように機会を逃さぬようにとの思いからだった。

 溝の口駅南口の市営バス始発停留所で、⑮ル-トのバスに乗車して15分程、思い描いた程の時間を要さず、白幡八幡大神前の停留所に到着した。下車して周囲を見回したが、白幡八幡大神への案内標識らしきものが全く見当たらない。
 白幡八幡大神への道を尋ねようにも、午後2時の通りには人の行き交いが皆目ない。どちらの方向へ進んだらよいのか迷っているところへ、たまたま最寄りの工場から現れた作業服姿の男性に尋ねると、「先の信号で右折し、下り坂を下りた左に白幡八幡大神の鳥居が見えますよ」と教えられた。信号の手前のコンビニから折よく小太り小柄な男性店員が現れ、尋ねると、団地に向かう平坦の道を進み突き当たりを右折すると直ぐ白幡八幡大神があると言う。
 店員の言葉どおりに白幡八幡大神に辿り着く。よく名所旧跡について意外と地元の人が知らないことを見聞きするが、白幡八幡大神について地元の人は何方もよく知っているようだ。
バス停にその名があるにもかかわらずバス停にその案内図がないのも、それだけ地元に密着しているからだろう。

 白幡八幡大神の鳥居の手前右に、川崎市教育委員会が建てた看板「白幡八幡大神と禰宜舞」に次のように記されているのを読む。
 《禰宜舞は白幡八幡大神の神主小泉家に代々伝わる、口伝による相伝の舞です。舞は素面による四方祓いの舞のあと、その都度、面、衣装、持物を取り替えて、猿田彦命、天鈿女命、天児屋根命、彦火火見命、大山祇命の神々を一人で舞います。舞は、古い巫女舞の影響を受けて、舞の所作に神招き、神懸の古風が見られるとともに、出雲流神楽の系統を引く関東系神楽の特徴が取り入られています。》とあり、末尾に昭和59年10月30日に川崎市重要習俗技芸に指定、とあった。
 鳥居は石造りだが、蝉が停まり、往く夏の終わりを惜しむかのように鳴き頻っていた。
 鳥居を潜って参道を上がると左手に、長方形の石造りの手水舎がある。手を清め、更に階段を上がると社殿がある。
 社殿の右に社務所がある。窓口に設えられた呼び鈴を押すと、上品な年配の女性が現れた。
 観光情報取材記者証を提示して自己紹介し、伺うと、神主の奥様、小泉良子さんであった。来意を告げ、早速今月第三日曜日の例大祭における禰宜舞が何時頃に舞われるのか伺った。
 午後1時から例大祭があり、禰宜舞はそのあと午後2時頃に舞われるとのお答えであった。
 例大祭における式典と禰宜舞の行事のスケジュ-ルについて確認したあと、白幡八幡大神の歴史について伺った。小泉さんから当神社の由緒等を記した白幡八幡大神の栞をいただいたが、口頭でも色々うかがうことができた。

 坪井「白幡八幡大神の由緒について伺いたいのですが?」
小泉「源頼義は、奥羽に出発するに際し、鎌倉八幡宮の御加護による、陸奥の平定を祈願、『この使命を果たすことができましたら、鎌倉から奥州へ行く街道10里毎に八幡祠一社(注)を造ります』と誓いを立てました」
(平安時代の中頃、大和朝廷は源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任した。源頼義は、河内源氏の出だが、陸奥守・鎮守府将軍の任命を受けた当時、平直方の娘を娶り、鎌倉にある直方の屋敷を譲り受け東国の拠点としていた。)

 ここで源頼義の陸奥守着任後の動向について興味を抱いて調査し、纏めてみると、次の通りである。
 源頼義が陸奥守・鎮守府将軍に着任後、俘囚長安倍頼時は恭順の意を示していた。(俘囚とは、古代、帰順した蝦夷の称)。とこうして頼義の任期最終年である天喜4年(1056)、頼義は交代の庶務手続きを行うため肝沢城に赴く。数十日間の滞在の後、頼義一向は国府への帰路、阿久利川にさしかかった時、権守藤原説貞の息子の野宿が襲われ人馬が殺傷されたとの報を受ける。藤原説貞は、安倍頼時の息子貞任以外に考えられぬと主張する。頼義はこれを真に受け、貞任を処罰しようとしたが、頼時は貞任を庇って衣川関を閉ざす。これに激怒した頼義は安倍一族追討の大軍を発する。後年、世にいう「前九年の役」の勃発である。頼義は先ず頼時の女婿・平永衝を謀殺する。同じく頼時の女婿・藤原経清はこの報を受けて身の危険を感じ、流言を放って頼義の軍を国府に引き帰らせ、自身は安倍氏のもとに走った。これにより頼義は先制攻撃の機会を逸する。とこうするうち頼義の任期満了。後任陸奥守の任命を受けたのは藤原良綱だったが、頼義と頼時の合戦の報を受けて辞退。ここに頼義は陸奥守に再任、天喜4年12月29日のことである。
 源頼義は気仙郡司・金為時、下野毛興重らを奥地の俘囚のもとに派遣して抱き込み、背後から安倍一族を攻撃させようと謀る。これに対し安倍頼時も自ら俘囚の説得に赴いたが、逆に伏兵の矢に射られて倒れ鳥海册まで辿り着くものの絶命。(天喜5年7月26日)
 しかしその後も安倍貞任、宗任兄弟を中心とする安倍一族の結束は固く、徹底交戦の姿勢を崩すことはなかった。天喜5年11月、黄海で源頼義は安倍貞任と戦い、大敗を喫する。
 この後、頼義は力を失い、奥州は安倍氏の支配下するところとなり、前九年の役は長期戦の様相を呈する。
 源頼義は戦局の膠着状態を打開するため、出羽国の俘囚長・清原氏に甘言をもって援軍を求める、康平5年(1062)7月、源頼義の求めに応じて清原武則は一万の軍を率いて合流する。この後、戦局は頼義軍の優勢に傾き、康平5年9月7日、安倍氏最後の砦・厨川柵が陥落して安倍貞任は戦死する。藤原経清は捕らえられて斬首、安倍宗任は落ち延びたがその後、投降する。
 かくて康平6年(1063)2月27日、奥州合戦の戦功の除目が公表された日が前九年の役の終戦日とされる。頼義は正四位下伊予守、嫡男義家は従五位、次男義綱は左衛門尉に任官。清原武則は従五位下鎮守府将軍となった。在地の豪族、清原氏の鎮守府将軍任官は破格とされる。
 以上、源頼義は陸奥守・鎮守府将軍としての目的を達成して凱旋、ここで再び小泉さんのお話に耳を傾ける。

 小泉「源頼義は凱旋すると、請願を果たし、鎌倉から奥州へ向かう街道、これが鎌倉街道なのですが、その鎌倉八幡宮からちょうど10里のところに、当神社を奏祠したのです。
 康平4年(1061)のことでした。それから長年の間、戦乱や国内の乱れとともに神社も荒れ、廃れたままになっていましたが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、祖先の事歴を調べて建久3年(1192)に当神社を再建、鎌倉八幡宮から御魂分けして源栄山八幡宮と称されるようになりました。その頃、稲毛三郎重成は桝杉山に居を構えて、この土地の領主となり、当神社は稲毛領五七ケ村の総鎮守となりました。現在御社殿の額面に“稲毛総社”と印されています。明治維新後の明治6年(1873)、郷社に列せられ白幡八幡大神と称さられ、今日に至っています」
(注)郷社とは、旧制度の神社社格の一。府県社の下、村社の上に位する。
 坪井「小泉さんが代々神主を勤められて永いですが、いつの時代まで遡れますか?」
 小泉「徳川家康から天正19年(1591)に神供免田70石余を賜っています」

 天正18年(1590)、徳川家康は豊臣秀吉の命令で、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃国の五ヶ国から、同年7月に秀吉が滅ぼした後北条氏の旧領、武蔵、伊豆、相模、上野、下野、上総、下総国の7ヶ国に移封された。移封とは体のいい物言いで、要は危険人物を少しでも遠ざけようとの秀吉の腹である。
 とまれ徳川家移封の翌年に、小泉家は70石余で家康に召し抱えられ、源栄山八幡宮の神主に任命されて今日まで、25代を数える。

 坪井「私は16年程前に都内から引越してきて今、梶ヶ谷に住んでいますが、近くの溝の口とか街を歩いていて、小泉姓が目につきます。元首相も小泉姓ですし、神奈川県には小泉姓が多いように思いますが、ご親戚とか遠縁の方とか、そういう方々でしょうか?」
 小泉「いいえ。うちだけです。親戚とか縁者とか、そういう方はおりません。当家は以前は世田谷にも土地をもっていましたから、神奈川が出身ということはあたりません」
 坪井「戦後の農地改革で、世田谷のほうは手放されたということでしょうか?」
 小泉「そうですね」
 坪井「小泉家の先祖はどちらの出身ですか?」
(ここで小泉さんから思いがけないことを伺ったのである。)
 小泉「先祖は泉三郎忠衡です。新編武蔵風土記稿には『先祖は泉三郎忠衡より出づ、忠衡が子新太郎常衡、其子常忠の子孫小泉を氏とするものありと云うのみにて、其間の世系を失せり。天正の頃小泉左京亮と云うものより後の事は詳に伝えたり、左京亮は天正八年二月十五日歿す、其子を左京亮と云』云々とあります。奥州平泉の藤原氏は四代泰衡の時、源頼朝によって滅ぼされましたが、泰衡の縁戚・忠衡は塩竈から江戸に逃れてきたのです」

 ここで、先に、清原武則の加勢により源頼義は安倍一族を滅ぼして奥州を平定、武則はその戦功により鎮守府将軍となった次第を述べたが、その後、泉三郎忠衡が塩竈を後にするまでの経緯を辿ることとする。
 清原家は武則から息子の武貞、その嫡子・真衡へと継ぐ。
 ところで清原武貞は、前九年の役の終戦後、安倍氏の有力豪族で戦後処刑された藤原経清の妻(安倍頼時の娘)を、妻としていた。その妻が藤原経清との間にもうけた息子を武貞は養子とする。清原清衡がその人。その後、武貞はその妻との間に家衡をもうけた。
 武貞の死後、真衡は清原氏の惣領の地位を継ぐ。真衡には嫡男が生まれず、海道小太郎を養子(成衡)にする。これにより清原氏は恒武平氏と縁戚関係をもつ。加えて真衡は源氏との縁戚関係を築くため、成衡の嫁に常陸国から源頼義の娘とされる女性を迎える。かつて頼義が陸奥国に向かう途中、平国香の流れをくむ平宗基のもとに一泊、その際、宗基の娘と一夜の契りを結んで生まれた娘である。
 成衡とその娘との婚礼に、陸奥の真衡の館に、出羽から吉彦秀武が祝いにかけつけた。吉彦秀武は清原家の長老格で、前九年の役の功労者。吉彦は祝いの朱塗りのお盆にのせた砂金の袋を捧げて、真衡のもとにやってきたが、真衡は囲碁に熱中して完全に吉彦を無視した。長老の面目を潰されて怒った吉彦は、砂金袋を庭にぶちまけて出羽に帰っていった。
 真衡は吉彦の行為に激怒し、吉彦討伐の軍を起こした。対抗して吉彦は、真衡と不仲の清原清衡、家衡に密使を送って蜂起を促した。清衡と家衡は吉彦に呼応して真衡の館に軍を進めた。出羽に進軍中の真衡は、清衡と家衡を討つべく軍をとって返した。清衡と家衡は決戦を避けて本拠地に戻ってしまう。
 真衡は吉彦を討つべく再び出撃の準備を進める。折しも陸奥守を拝命した源義家は陸奥国に入った。真衡は国府で三日間にわたって義家着任を祝った後、改めて吉彦を討つべく出羽に出撃したが、行軍の途中で急死してしまう。一方、清衡家衡連合軍は出羽に向かった真衡の留守を狙って再び攻めたが、真衡側に加勢した義家に撃退され降伏する。
 源義家は、死んだ真衡の所領・奥六郡と、和賀、江刺、肝沢の三郡を清衡に、岩手、紫波、稗貫の三郡を家衡に分与した。応徳3年(1086)、家衡はこの裁定を不服として清衡の館を攻めた。妻子をはじめ一族を皆殺しにされたが清衡自身は逃れて義家のもとに走った。清衡は義家の助力を得て、沼柵(秋田県横手市雄物川)の家衡を攻めた。籠城する家衡、季節は冬、攻城戦に充分な準備をしてこなかった清衡・義家軍は退却を余儀なくされる。
 武貞の弟・清原武衡は家衡のもとに駆けつけ、義家に勝利したのは一門の誉れと讃えるとともに、清衡・義家軍の再来襲に備え、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢)に移ることを勧める。寛治元年(1087)、清衡・義家軍は金沢柵を攻めたが攻めあぐね、吉彦秀武提案の兵糧攻めを採用。兵糧が尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火をかけて敗走した。武衡は近くの蛙藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられて斬首、家衡は下人に身をやつして逃亡を企てたが討ち取られた。
 以上が後三年の役の顛末だが、朝廷は同役を義家の私戦とし、戦功の評価はゼロ、戦費の支払いも拒否し、陸奥守を解任した。のみならず後三年の役の間、義家は陸奥守として定められた朝廷への貢納を行わず戦費に充て、又官物から兵糧を支給したことから、その間の官物が未納を朝廷から咎められ、義家は朝廷から受領功過定を通過出来なかった。そのため義家は新たな官職を受けることも出来ない。
 そういう次第で、義家は関東から出征してきた将士への恩賞を私財で賄わなければならなかった。これが却って関東武士団の義家延いては源氏への厚い信頼を築くこととなり、後年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る下地となった。
 なお、白河法皇の意向で受領功過定が義家に下りたのは10年後の承徳2年(1098)であった。
 一方、後三年の役後、清原清衡は清原氏の旧領の全て、陸奥六郡、出羽三郡を手にいれるとともに、実父藤原経清の姓に復する。
 藤原清衡は、朝廷の実権を握る都の藤原摂関家に接近し、賄賂を贈ることにより陸奥内政不干渉を得るとともに、居館・豊田館(江刺)から、安倍氏の本拠地であった衣川の南に新たに館を構えた。其処は北上川の舟運が良く、衣関の南に位置する交通の要所。清衡の勢力が衣川の南、つまり陸奥六郡の外まで及んでいたことが知れる。
 その地で藤原清衡は、前九年の役及び後三年の役の戦乱で亡くなった安倍及び清原氏を供養するため、一大伽藍の造営に着手する。中尊寺を中心とする金色堂、経堂、二階大堂の寺院群それである。金色堂は当初阿弥陀堂であったが、清衡の死後、藤原氏の葬堂として機能する。
 清衡の死後、息子達・「小館」と「御曹司」の間で相続争いが起こる。戦いに破れた小館は追われて越後に辿り着き、舟で逃げようとしたが、海が荒れて乗り込めず、引き返したところを御曹司に追いつかれて殺害される。
 相続争いに勝利した御曹司は基衡といい、奥州藤原仏教文化の全盛期を招来する。
 基衡のあとを継ぐ奥州藤原三代は秀衡である。
 清衡・基衡・秀衡と三代にわたって藤原氏が奥州平泉で栄華を極めたのは、馬や金、その他の特産物などを献上するなどして摂関家に接近、陸奥の内政の不干渉を得たことによる。
 秀衡は牛若丸おちの義経の庇護者として知られる。秀衡が平氏の魔手を逃れてきた牛若丸を温かく迎えたのは、初代清衡が奥州平泉の栄華の礎を築けたのが偏に義家の加勢により対立する家衡・武衡軍を破ったことからによる。
 都では保元、平治の乱と戦乱が相次いだが、その間、中立を保った奥州藤原家は繁栄を謳歌したが、皮肉なことに、義経を庇護したことにより滅亡を招く。更に皮肉なのは、同じ源氏の異母兄頼朝に滅ぼされたことだろう。
 義経が平泉に潜伏しているとの情報が鎌倉に流れてくると源頼朝は、密偵を放って義経の存在を確かめ、上皇を経て藤原秀衡に義経追討の宣旨を下す。しかし秀衡は「当方には義経殿はござらぬ」などと白を切り通して、動じない。頼朝は繰り返し上皇を介した義経追討の宣旨を下すも軍を起こして追討軍を起こすまで至らぬのは秀衡の勢力に一目を置いていたからだろう。
 ところが秀衡の病死によって事態は急変する。後を継いだ四代泰衡と藤原基衡(泰衡の母方の祖父)のもとに、改めて義経追討の宣旨が下る。泰衡と基衡をはじめ藤原一族は、義経を奉じて頼朝と徹底交戦するか、宣旨を受けて義経の首を頼朝に差し出すか、どちらを採るかで大揺れに揺れた。挙句、泰衡は衣川館に義経を急襲して自害に追い込む。
 義経の首は酒に漬けられ、長い日程をかけて鎌倉に届けられた。鎌倉では和田義盛と梶原景時が義経の首実検をしたが、おそらく義経とはっきり見極められる状態ではなかった。と思われるのは、後年、義経北行伝説がまことしやかに語り継がれているからだ。
 頼朝が、藤原一族が義経を匿っていたことを口実に、院に泰衡追討の宣旨を請求したのは、送られてきた義経の首なるものが義経の首と判別できる状態でなかったことから、別人の首では?との疑心によると思われる。ところが、頼朝が院に請求した泰衡追討の宣旨はなかなか下りなかった。それだけ奥州平泉の藤原氏の初代、二代、三代と摂関家とは親密な関係にあったことが窺われる。
 一刻も早く義経の死を確信したい頼朝は、院の宣旨が下されるのを待たず文治5年(1189)7月19日、鎌倉から奥州平泉へと軍を発する。頼朝は軍を三隊に分ける。千葉氏率いる第一隊は太平洋の海岸沿いを北進、比企氏率いる第二隊は北陸道を北進、頼朝自ら率いる第三隊は東山道を北進と。こうした万全の布陣からは、義経は未だ生きているのでは?との頼朝の強い疑念が解けぬ様子が窺える。
 8月7日、頼朝の中央軍は、泰衡の異母兄国衡が守る平泉の第一防衛線・阿津賀志山で衝突する。頼朝は畠山氏率いる先遣隊に防塁を埋める作業をさせ、進軍の障害を取り除いた。翌8日、畠山氏が攻撃を仕掛けるや、国衡軍はさしたる抵抗もせず退却する。その退却は、阿津賀志山の北側、天険の大木戸に陣を布き、2万の精鋭で頼朝軍本隊を迎え討とうという国衡の計略による。翌日、頼朝は正面から進軍せず、小山氏率いる軍を阿津賀志山を迂回させ大木戸の後方へ進める。翌々日9日、濃霧の中、頼朝軍は国衡が布陣する大木戸を前後から攻撃する。この挟撃に国衡軍は混乱、戦意喪失して敗走。頼朝軍は国衡を追撃、国衡は現宮城県大河原町で大串次郎によって討ち取られる。
 国衡軍の壊滅をきき泰衡は、平泉を目指して退却。
 12日、頼朝軍は多賀城国府に到着、ここで海岸沿いを北進した第一隊と合流し更に進軍して、坂上田村麻呂も父祖源頼義・義家も布陣した営岡(現栗原町屯ヶ岡神社)に至り、軍の平泉入りに備える。泰衡は頼朝の大軍を前に戦意喪失、平泉の館に火をかけて北へと逃亡する。翌13日、頼朝は平泉に入り、ついで泰衡を追跡し更に北進する。
 平泉から贄柵(秋田県大館市付近)に逃れた泰衡だが、そこで家臣河田次郎に討たれる。頼朝の恩賞に与ろうとした河田だが、ご多分にもれず主君殺しの廉で暫刑に処される。
 頼朝は、前九年の役で源頼義が布陣した陣ヶ岡(岩手県紫波町)に布陣し、第二隊と合流、泰衡の首の到着を今や遅しと待つ。泰衡の首が届いた3日後、頼朝が院に申請していた泰衡追討の宣旨が届く。頼朝が鎌倉を発してから二ヵ月近くが経っていた。その宣旨の日付は、頼朝が鎌倉を発した当日の7月19日になっていた。これはどういうことだろうか。
 おそらく朝廷は、藤原泰衡軍の勝利に期待をかけていた。だから頼朝の申請を留保して泰衡追討の宣旨を控えていた。頼朝の勝利が明確になった時点で、漸く泰衡追討の宣旨の発出に踏み切ったが、その日付はぬけぬけと、頼朝が鎌倉を出陣した日を認めた子細。

 以上が奥州平泉藤原四代の次第だが、ここで漸く白幡八幡大神の小泉家の先祖、藤原泰衡の縁戚、忠衡について言及する段取りにはいれることになる。
 通説によれば、忠衡は、縁戚の泰衡が頼朝の義経追討を受け入れ義経を殺害することに猛反対して争い、泰衡に殺害されたとされる。その忠衡が塩竈から海路か陸伝いか関東まで落ち延びたというのが真説とすれば、頼朝の追手から逃れる方便として、泰衡が泉三郎忠衡と名乗ったのは、「藤原」姓を憚りながらも「平泉」の一字を姓に付けたのであろうか。
 奥州からの凱旋に際して頼義が造った八幡祠、その後荒れ果てた神社を頼朝が再建して源栄山八幡宮と称した、その神社の神主に奥州平泉藤原氏の末裔が就くという奇しき因縁に、歴史の不可思議さを改めて噛みしめる。

 さて、白幡八幡大神は禰宜舞によって夙に有名だが、その由来について小泉良子さんに伺ったところ、「徳川家康が慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに出陣する際、戦勝祈願のため、平村白幡八幡社の神主小泉に太太神楽を興行させたのが始まりです」との答えであった。
 太太神楽とは、伊勢神宮へ奉納する太神楽のうち最も大がかりなものを指すが、家康が戦勝にかけた意気込みのほどが伝わってくる。
 白幡八幡大神では今年、9月の第三日曜日、9月20日の例大祭に禰宜舞が舞われる。当日の日程を確認して、白幡八幡大神を後にした。

 9月20日は、ここ一両日小笠原諸島辺を北上する台風の影響による強い風により雲が吹き払われて、雲ひとつない快晴となった。例大祭のこの日、先日訪ねたときとは打って変わって賑わいを見せていた。入口の両脇には白地に「白幡八幡大神」と大書した、3mはあるかと思われる白旗が建てられており、大鳥居に上がるまでの階段の両脇には焼鳥や蛸焼や氷水の露店が出ていた。囃子太鼓を打つ軽やかな音に階段を上がる足が早まる。
 参道を上がり切ると社殿の前は大勢の人で賑わい、明るい雰囲気が横溢していた。大人より子供の人数が多い。小学生ぐらいの子供が殆どで、未就学生もちらほらと見える。大人は例大祭関係者の他は子供の引率者が多い。老齢の10人程のグル-プが社殿前に屯していた。彼らの話に聞き耳を立てると、同好会の散歩コ-スに白幡八幡大神の禰宜舞を入れていて、只今此処に到着したのだった。時刻は午後0時半過ぎ、同好会の引率者は社務所の窓口から戻ってきて、仲間に「禰宜舞は2時から。あと1時間半近くある。どうしようか」などと話し合っていたが、私が他に気をとられているうちに、グル-プの姿は消えていた。
白幡八幡大神(宮前区)相撲 相撲大会 神楽殿では太鼓のお囃子に合わせて獅子舞が始まり、獅子が頭を脱ぐと、白い仮面の男の顔が現れ、暫し舞いが演じられた。神楽殿と反対側の境内の一角に子供が集まっている。土俵が設けられ、男の子が上半身裸・ズボンの上に相撲の回しを付けている。小学3年、2年、1年と、クラスごとの相撲大会で、土俵の周りには大勢の人だかり、賑やかな声援が挙がった。時計を見ると、午後1時を5分ほど過ぎていた。祝詞は午後1時に始まると聞いていたので、社殿前に駆け戻った。
 祝詞は始まっていた。神殿の前に7人の神官が向かい合って座り、神殿下の広間には、「八幡」と大書した丸紋を背に染め抜く法被を着た、当神社の氏子の方々が40人ほど椅子に座っていた。式典の最後に宮司が玉串を社殿に捧げたあと、氏子を代表して4人が神前に玉串を捧げて式典は終了した。
 式典が終わると広間の椅子が片付けられ、次の獅子舞を見に例大祭に参集した善男善女が招き入られる。振り返ると、子供相撲大会は終了していた。
 招かれる儘、左右から我先にと争うよう人々と一緒にが広間に上がり、広間は忽ち立錐の余地もない程人で一杯になった。80人にはなろう。入りきれぬ人々は堂外の立見席に二重三重の人垣をつくった。
 前後左右を見て少なからず驚いたのは、子供、それも小学生以下の子供が多いことだ。大人2に対して子供3の割合だ。禰宜舞に関心をもつ子供達に感心した。
 いよいよ禰宜舞が始まる。先ず古式の帽子と衣装をつけた神主は、素面による四方祓いの舞を、広間より一段上の小広間で舞う。そのあと面と衣装を取り替えて五座の神々(①猿田彦命、②天鈿女命、③天兒屋根命、④彦火火出見命、⑤大山祇命)の舞を行う。
 最初は猿田彦命の舞。猿田彦命が登場すると、広間のあちこちから、「天狗だ」「天狗だ」との子供の声が挙がった。猿田彦命の面は赤ら顔で、鼻は子供達の声のとおり天狗そのものだ。

 猿田彦命について『日本書紀』には、鼻が長く目が赤く酸漿のように輝いているとあり、次のように天孫降臨の場面で登場するが、その前段から振り返ってみる。
 天照大神は、子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と高皇産霊尊の娘栲幡千千姫の間に生まれた天津彦彦火邇邇芸尊を葦原中國の王として高天原から天降りさせようとした。が、葦原中國が未だ乱れていることから、婿の安寧のため高皇産霊尊は八十諸神を召し集い、葦原中國を平定するには誰が適任か問う。神々は挙って勇者・天穂日命を推薦。高皇産霊尊は衆議一決に従い、天穂日命を葦原中國に派遣した。が、天穂日命は葦原中國の大己貴神に懐柔され、三年経過したが音沙汰無し。そこで、次に天穂日命の子・大背飯三熊之大人を派遣したが、子は親に従い、これまた音沙汰なし。
 高皇産霊尊は再度、諸神を集めて質すと、皆は天國玉の子・天稚彦を推薦する。高皇産霊尊は、天稚彦に天鹿兒弓と天眞鹿兒矢(あまのまかごや)を賜って葦原中國に派遣する。天稚彦は顯國玉(大己貴神の別名)の娘・下照姫を娶り、自ら葦原中國の支配を欲し、高皇産霊尊には一切復命しなかった。
高皇産霊尊は天稚彦からの連絡がないことから、雉を遣わして天稚彦の消息を探偵する。雉は天稚彦の家の門の前の湯津杜木の梢に止まる。これに目を止めた天探女が天稚彦に「珍しい鳥が杜木にいる」と告げる。天稚彦は天鹿兒弓に天羽羽矢をつがえて射殺す。矢は雉を射抜いて高天原の高皇産霊尊の許まで届く。
「この矢は、天稚彦を葦原中國に派遣するときに与えたものだ。矢が血に塗れているところをみると、きっと國神と戦ってのことに相違ない」と高皇産霊尊は天稚彦に好意的な見方をして、その矢を高天原から葦原中國に投げ下ろした。高皇産霊尊の思惑ではその矢は、國神と相戦う天稚彦の敵を射殺する筈だった。が、その矢は、新嘗の行事の後、休息、仰臥していた天稚彦の胸に命中。天稚彦は絶命する。
 その後、高皇産霊尊は三たび葦原中國に派遣すべき者を人選。経津主神に武甕槌神を配してる葦原中國平定に送り込む。
 経津主神と武甕槌神は出雲国の五十田狭の小汀に降りるや、十握剣を抜いて逆様に地に突き立て、大己貴神に「高皇産霊尊は皇孫を此の地に天降りさせて治めさせるため我等を派遣した」と高皇産霊尊の勅を告げ、「汝の意向は如何?」と国譲りを迫る。大己貴神は「我が子に問うて、返答する」と答える。その子・事代主神は出雲国の美保の碕に住み、漁を生業とする。大己貴神は事代主神に使いの者を遣り、高皇産霊尊の勅を伝えてその返答を問う。事代主神は国譲りを承諾、大己貴神はその旨経津主神と武甕槌神に回答。これを以て葦原中國は平定される。
 ここで天照大神は天津彦彦火邇邇芸尊に八坂瓊の曲玉、八咫鏡、草薙剣と、三種の宝物を賜り、又、天兒屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命を侍らせる。天照大神の餞の言葉「葦原の瑞穂の国は、吾が子孫が王として治めるべき国である。汝、皇尊はその王に就いて治めなさい。いってらっしゃい」云々と。
 こうして邇邇芸尊がいよいよ天降りしようとするとき、先頭の者が振り返って云うには、「天の八衢に一人の神がいる。その鼻の長さは七咫、身長七尺余り、口の脇は明るく輝き、眼は八咫鏡の如くして、その照り輝く様は赤い酸漿のようだ」と。

 禰宜が猿田彦命の面をつけて登場したとき、子供達の間から「天狗だ天狗だ」と、どよめきが興ったが、猿田彦命は将に天狗の面相なのだった。事実、猿田彦命は天狗の原型とされている。

 さて、天照大神は配下に八百万の神を従えていたが、みな眼力が勝って相手を怯えさせてしまう。そこで、誰が相手でも気後れしない天鈿女命に命じ、行方を遮る異形の者が一体何何者か尋ねさせた。八衢に立つ神の前に進み出た天鈿女命は、《其の胸乳を露わにかきいでて、裳帯を臍の下に抑れて》、艶然と笑みを浮かべ、「天照大神の皇子がお出でになる道に居るのは何故か?お名前は?」と尋ねた。衢神は「天照大神の皇子が天降りなさるとの情報を得たので、お迎えするためこうしてお待ちしているのだ。吾が名は猿田彦大神」と答えた。ついで天鈿女が「汝は我に先立ちて行くか?それとも我が汝に先立ちて行くか?」と問うと、猿田彦は「我が先立ちて道案内をする」と答えた。

 禰宜が猿田彦命を先に舞い次に天鈿女命を舞うのは、この遣り取りに叶う。
 猿田彦命の面は赤ら顔で天狗鼻をもつ、いかつい顔だが、天鈿女命の面は瓜実顔の美人顔である天鈿女命と猿田彦命とは、美女と野獣の組み合わせだ。

 天鈿女は更に「天照大神の皇孫を何処に案内するのか?そのあと汝は何処に帰るのか?」と尋ねる。猿田彦は「天神の皇子は筑紫の日向の高千穂の患觸峯にご案内する。吾は伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に戻る」と答える。
 天鈿女が戻って復命すると、皇孫は天磐座からおり、天の八重雲をかきわけ、道をかきわけかきわけて天降りする。
 以上が天孫降臨の次第。

 禰宜が猿田彦命を舞い、ついで天鈿女命を舞ったところで、5,6人の氏子が現れ、菓子の詰め合わせの袋を配り始め、子供達の歓声があがった。「子供だけですよ」と氏子が言いながら配っていった。ついで「大人の方には」と柿の種一袋と紙コップが手渡され、その後を追うように酒の一升瓶をもった氏子が現れ、紙コップに注いでいく。
 この、子供には大変嬉しい幕間に、痺れた足を直すため私は座を立ち、社殿内から外に出た。社殿の前にも多くの見物人がいて、私はその人達に混じり立ち見席で、次の天兒屋根命の舞を待った。

 天兒屋根命は、素戔鳴尊の数々の狼藉に怒り天石窟に入って天の磐戸を閉ざした天照大神を、思兼神、手力雄神、太玉命、天鈿女命と協力して、天石窟から引き出し奉った五神の一神である。天孫降臨の際には邇邇芸尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされ、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神様として信仰された。

 天兒屋根命の面は黒々とし、白髪を頂いている。上着は緑、袴は紫で、右手に鈴、左手に剣を持って舞う。
 天兒屋根命の次に登場したのが彦火火出見命で、面は若々しく、赤々とした面の色であった。上着は黄土色、袴は紫で、右手に鈴、左手に銀色の扇を持って舞う。舞いのあと、彦火火出見命は弓と矢を持って再度登場する。弓に矢をつがえて、ひょうと射る。射るとはいっても普通に射ったら危険、そこで形ばかりに射るのだが、矢はへろへろと観客の上に力なく落ちる。その矢を手で受けたものは大喜びだ。第一の矢は大人の男性が受けた。同じように矢が四本まで射られた。子供が受けた矢もある。それらの矢は各自、家に持ち帰られ、破魔矢として神棚などに供えるのであろう。

 彦火火出見命は、邇邇芸尊と木花開耶姫との子である。
 天降りした邇邇芸尊が見初めた絶世の美女が木花開耶姫(このはなのさくやひめ)であった。見初めた邇邇芸尊が「あなたはどなたの娘か」と尋ねると、「両親は天神と大山祇神です」と木花開耶姫と答えた。
 邇邇芸尊は大山祇神に木花開耶姫を嫁に所望する。大山祇神は承諾するが但し、木花開耶姫のほかその姉磐長姫(いわながひめ)の二人に百机飲食を持たして嫁入りさせる。
 邇邇芸尊は醜い磐長姫を避け、美貌の木花開耶姫と褥を共にする。邇邇芸尊と一夜契った木花開耶姫は、妊娠する。
 一方、磐長姫は「若し天孫が私を避けずに召せば、生まれた児は長寿にして磐石の如く永久に生きよう。しかしそうではなく妹のみを召す。故に、妹が生んだ児は必ず木の花の如く散るでしょう」と呪い、「生きとし生けるものは、木の花のように、やがて移ろい衰えていく」と泣いた。これが人の一生が短いことのもととなった。
 木花開耶姫が「私は天孫(邇邇芸尊)の児を孕みました」と言うと、邇邇芸尊は「天神の児といえども、どうして一夜に人をして孕ませることができようか?若しや吾が児ではないのではあるまいか」と疑う。
 木花開耶姫は、邇邇芸尊の言葉に怒り、恨んで、無戸室(うつむろ)(周囲一面を土で塗り潰した、出入口のない室)をつくり、その室に入り・籠もって、「私が身籠もった子があなたの胤でなければ、我が身もろともお腹の子も、必ず焼け死ぬでしょうが、あなたの胤ならば火に害なわれることはないでしょう」と身の潔白を吐露して言い、無戸室に火を放った。
 火を放たれ炎が起こったときに生んだ児は火酢芹命と名付け、次に火が盛んに燃える最中に生んだ児を火明命と名付け、そして火が鎮まったときに生んだ児を彦火火出見命と名付けた。三人の子供を生んだあと燃え杙の中から現れた木花開耶姫は邇邇芸尊に対して、「私が生んだ児たちも私の身体も火難にあっても、少しも損なわれることがありません。天孫はご覧になりましたか?」と言う。
 邇邇芸尊は木花開耶姫に答える、「私はもとより我が子と知っていた。ただ一夜にして孕んだことにも疑いをもつ者もあるのではないかと思うので、衆人みなに、この児らは我が子であること、天神は一夜に孕ませることができることを知らしめようとおもい、またあなたには不思議な力をもつ働きができること、吾が児たちには人を超越した力が備わっていることを知らしめようとおもって、それゆえ前日のような嘲る言葉を述べたのだ」と。つまり、邇邇芸尊は、一夜にして木花開耶姫が孕んだことについて、不倫ではないかとの衆人の疑いを払拭するため、木花開耶姫には霊威があること又吾が児たちには天神の児である証しを明かさせた、即ち火難にあっても命が損なわれないことで体現した、と。

 禰宜がつける彦火火出見命の面が真っ黒なのは、燃え尽きた無戸室の灰塵の中から生まれたことによるものとおもわれる。精悍な風貌である。彦火火出見命は、衣装は上は黄土色、袴は紫で、右手に鈴、左手に銀色の扇をもって舞う。
 彦火火出見命のあとに登場するのは、大山祇命である。大山祇命が木花開耶姫の親であることは既に紹介したとおり。大山祇命の面は、額に頬に深い皺を寄せており、その面相からも老年の風貌であることは一目瞭然でわかる。衣装は、上は金の刺繍模様がはいった黒で、袴は紫色である。右手に鈴、左手に幣串の房を持って舞う。
白幡八幡大神(宮前区)相撲 大山祇命の舞いが終わったあとに、見物の子供達の間から歓声が挙がった。大山祇命が見物する人々の上に、団子を撒きはじめたからである。大人も子供も共に歓声を挙げながら団子を受け止めようとする。団子を配りおわり禰宜が舞台の袖に退くと、入れ代わりに、4、5人の氏子が舞台に登場し、舞台奥に置かれていた樽をふたつ持ち出してきた。その樽を開けると、中には団子が一杯に詰まっている。「うわあ、一杯だあ」「沢山だあ」と、期せずして子供達が大きな歓声を挙げた。それからというもの、見物人の上に雨霰と団子が降り注いだ。子供達の沢山の手が上に伸び、大人たちも負けずと団子を受け止めようと必死だ。が、何故か、取り合いという雰囲気は殆ど感じられない。和気藹々、みな楽しみながら団子を受け止めようと競争している。

 団子配りがおわり、堂内から次々と出てくる子供たちの顔はどの顔も喜びに満ち溢れている。
子供に付き添う親御さんの顔も、誰も彼も嬉しそうだ。背に「八幡」と染め抜いた法被を着た氏子の皆さんは、にこにこと彼らを見守って楽しそうだ。子供の中には、一杯の団子を入れた大きなビニ-ル袋をぶら下げた者が何人もいる。30個以上の団子が入っているだろう。団子配りの行事を知っていて予め用意してきたものだろう。
 禰宜舞いの途中における菓子セット袋の配布と、おわったあとの団子配りと、これにより何故子供が多く列席しているのかが分かった。子供たちは殆どが小学校低学年生で、高学年生は数えるほどしかいない。
 小学校低学年では、禰宜舞いの意味はよく分からないかもしれない。が、記憶にははっきりと残る。そしていつかその意味を知る歳になるだろう。子供たちを引率して例大祭に参加した大人たちは、そうした記憶を改めて認識するために参加しているのだと思う。なによりも笑顔笑顔に満ち溢れた大人と子供の集団を目のあたりのしたのは、久しく記憶になく、楽しい気持ちに胸が一杯になるひとときだった。
 地域社会における温かい集まり、交流の場を提供する白幡八幡大神の深い意味をしみじみと感じたことであった。

 私は白幡八幡大神の縁起から、源頼義の前九年の役、源義家の後三年の役に思いを馳せ、奥州藤原四代の末裔が今日、代々白幡八幡大神の神主をお勧めになっていることの奇縁に思いを深くした。また、五神の禰宜舞いから『日本書記』を繙く機会を与えられ、意義深いことであった。(2009.10.27 文・坪井喬)
【注意】掲載記事は、取材時のもので内容がかわっている場合があります。

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