白幡八幡大神の禰宜舞(白幡台)

 白幡八幡大神の夏祭、秋の例大祭に、禰宜舞は舞われる。禰宜舞は、白幡八幡大神の神主・小泉家に代々伝わる、口伝による相伝の舞で、先ず素面による四方祓いの舞いのあと、面・衣装・持物を取り替えて、猿田彦命・天鈿女命・天児屋根命・彦火火出見命・大山祇命の神々を一人で舞う。今回は白幡八幡大神の歴史と、禰宜舞の興りについて紹介します。 
白幡八幡大神の前身は平安時代に、源頼義によって創建。その経緯は、源頼義は朝廷から陸奥守・鎮守府将軍を拝命し任地に赴くに際し、陸奥に勢威を振う安倍一族の平定を鎌倉八幡宮に誓願、「この使命が成就したら、鎌倉から奥州へ向かう街道10里毎に八幡祠を造る」と。
 源頼義は再度の任期中に遂に安倍一族を平定して凱旋、鎌倉八幡宮から10里の当地に神社を奏祠して誓願を果たす(1061年)。その後、戦乱や国内の乱れで当神社は荒れ果てたが、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が、祖先の時歴を調べて1192年に当神社を再建、鎌倉八幡宮から御霊分けして当神社は源栄山八幡宮と称される。その頃、枡形山に居を構える稲毛三郎重成はこの土地の領主となり、当神社は稲毛領五七ケ村の総鎮守となった。現在の社殿にも“稲毛総社”と印される。当神社が白幡八幡大神と称されるようになったのは明治6年、郷社に列せられた後のことである。
 小泉家は、天正19(1591)年に神供免田70余石を賜って徳川家康に召し抱えられ、源栄山八幡宮の神主に任命されて以来、代々神主を勤め、当代で25代を数える。
 さて、白幡八幡大神の禰宜舞の由来は、徳川家康が慶長5(1600)年、関ヶ原に出陣するに当たり、戦勝祈願のため平村白幡八幡社の神主小泉氏に太太神楽を興行させたのが始まりである。今日、禰宜舞は7月の夏祭、9月の例大祭に奉納される。
 9月の例大祭当日、白幡八幡大祭の入口の両側には、白地に「稲毛総社 白幡八幡大神」と染め抜かれた幟を掲揚。参道の階段を上がると、境内の一角では子供相撲が開催され、声援と歓声で沸き立っていた。
 社殿では7人の神官により祝詞があげられ、40人程の氏子が参列、式典の最後に、神主が玉串を神殿に捧げたあと、代表の氏子4人が神前に玉串を捧げて式典は終了した。
 式典が終わると神殿前の広間の椅子が片付けられ、禰宜舞を見に例大祭に参集した善男善女が社殿内に招き入れられた。前後左右を見て驚かされたのは、小学生以下の子供が多いことだ。大人2に対して子供3の割合だ。
 いよいよ禰宜舞が始まる。先ず古式の帽子と衣装をつけた神主が素面による四方祓いを舞う。そのあと五座の舞、最初に登場するのは猿田彦命。
猿田彦命が登場すると、広間のあちこちから「天狗だ!天狗だ!」と子供達の声が高く挙がった。猿田彦命の顔は真っ赤で、鼻は子供達の声のとおり天狗のそれだ。
 猿田彦命、天鈿女命の舞のあと、中入れとなり、5,6人の氏子が現れ、菓子の詰め合わせの袋を配り始め、子供達の歓声が挙がった。
 中入り後、天児屋根命そして彦火火出見命を舞う。彦火火出見命の舞いの最後に、小さな弓に小さな矢を番えて形ばかりに射ると、矢は観客の上にへなへなと力なく落ちる。その矢を受け取った者は大喜び。矢は4本射られ、受けたのは大人が多いが、子供が受けた矢もある。それらの矢は家に持ち帰り、破魔矢として神棚などに供える。
 最後は大山祇命の舞。ひととおり舞いが終わったあと見物の子供達の間から歓声が挙がった。大山祇命が見物する人々の上に、団子を撒き始めたからである。大山祇命が舞台の袖に引っ込むのと入れ代りに4、5人の氏子が舞台に現れ、舞台奥に置かれた樽を二つ、舞台の前面に持ち出して来る。樽の蓋を開けると中には団子がいっぱいに詰まっている。「ウワアッ!いっぱいダア!」「沢山ダア!」と期せずして子供達が大きな歓声を上げる。それから氏子達によって見物人の上に団子が雨霰とばら撒かれる。子供達の沢山の手が上に伸び、大人達も負けずと団子を受け止めようと必死だ。が、何故か、取り合いという雰囲気は全く感じられない。みな楽しみながら、一個でも多く団子を受け止めようと競争している。
 団子配りがおわり、社殿内から次々と出てくる子供達の顔は、どの顔も喜びに満ち溢れている。いっぱいの団子を入れたビニール袋をぶら下げた子供が何人もいる。
 例大祭に参加して、何よりも笑顔、笑顔に満ち溢れた子供と大人の集団を目の当たりにして、こちらも仕合せな気分でいっぱいになった。地域社会における温かい集まり、交流の場を設ける白幡八幡大神の貴重な存在意義をしみじみと感じさせるひとときであった。

宮前の風4号・2010.10 文・坪井喬)

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